白い球体になりたい

音楽好きだし、ゲイだし、世界が終わらないことも知ってる

1984

最近ネットフリックスに魂を売り渡していろいろ見ている。面白かったのはグレートハックというドキュメンタリー。ドキュメンタリーが一番好き。ショウレースもいいけど、どんなフィクションよりも現実の方が確実に面白いと思っているタチなので。グレートハックというドキュメンタリーは、簡単にいうとSNSに無料であげられたユーザデータが政治のプロパガンダに使われていた実話スキャンダルを暴いた話。何気なくSNSを活用していた身としてこれは本当に衝撃的な話だった。何気なく呟いた言葉、結婚しているかしていないか、男性か、職業は、住んでいるところ‥ありとあらゆる情報が解析され、その人が政治的にどんな考え方を持っているのかが判別できること、さらにその考えも、巧みな広告やデマ情報などで感情を煽ることで改心することが可能だということ、それらはブリジグットやオバマトランプ大統領の当選活動に巧みに用いられていたいうこと、しかもこの元凶はたった一つのイギリスの会社で行われたということ。こうやって並べてみると、このブログの文章もきっと解析されてしまうのかもしれないし、私が普段考えている色々なこと、特にSNSで流れている情報が、何もかも空想のように思えてくる。

1984という曲が好き。andymoriだ。はじめ1984とは何だろう?生まれ年か?など今思えばなんと無理解だったことを思っていた。これは大昔に流行したディストピア小説の名前から取られたのだと今ならわかる。完璧な監視社会の話だ。私もウィキペディアだけを読んだだけなので、詳しくはまだ知らないが、読めなくなってしまう前に読んでおかなくてはいけないな、と思った。

そのヘイトも、本当に自分の身から出ているのか、自戒してみてほしいよ。

SNS

日常が果てしなく続くと、記憶もないままに月日が続いていく。非日常を時々挟みたくなるのは、日常の繰り返しは記憶として残りにくく、非日常ばかり思い出になって僕たちが死んでいくことをわかっているからなんだろう。ちょうどいい。私はずっと日常が欲しかった。思考しないで繰り返すだけで生きていける日常が。

日常がないと非日常を象ることができない。夜にならないと街灯は影を照らせないのと同じで、屈強な日常があって初めて非日常を非日常たらしめるのに違いない。上京してから、東京(神奈川)はずっと僕にとって非日常の街だった。ようやくだ。いつもの職場のバス、デスク、上司の顔、昼食、ルーティンが出来上がり、私はそれらすべてを毎日思い出しては忘れていく。

そうした中で、不意に悪意が差し込まれる。悪意は大概非日常になりえるが、本当に見たくないものだ。臭いものに蓋ということわざのある国で生まれ育った私としては、なるべく見たくないものだ。しかし、最近はいやでも目に入る。群集たちはマスメディアに煽られて、あるいはSNSで顔も知らない誰かにそそのかされて、勃起した陰茎で悪人の顔を殴る。ここまで書けばなんとなくわかるかもしれないが、私は疲れ果てていた。

悪人は悪人でしかないが、悪意に悪意で応えてはいけない。これは祈りに近い。何のための法治国家だというのか。誰しもを敵か味方かでしか見れなくなってしまった人たちにこう言ってもきっとわからないだろう。わからないだろう、と思ってしまうと私は黙り込んでしまう。私がわかりやすい言葉を使えないからよくないのだ。

よくないことをよくないと叫ぶのはいいのだ。ただ近頃のニュースには疲れてしまっただけだ。こうやって、人々は気力をなくし、意見を叫ぶこともやめ、自分の好いているものすらSNSの映えを気にするようになる。最後のは蛇足だ。

しかし強烈な記憶に残ってしまうものになるのだろう。私はただただ冥福と、法に基づいた制裁を。

みる

疲労でくたくただったが帰りの電車では運良く座ることができた。通過する駅すら認識できないほど遠い意識のなかで、ふと子供の声が聞こえる。目を開けると隣の座席に親子が座っていた。

「いちねんせいになったら」

子供は電車の中だというのに歌っている。新入生なのだろう。少し寂しそうに見えたのは、母親の気を引きたがっているのがわかったからだ。母親は少し疎ましそうに子供をなだめている。ここは電車のなかだから静かにしなさい。

私にもああいう時代がきっとあったのだろう。

 

最近、人を「みる」ということはとても大切なのだなと痛感することが多い。

「みる」というのは決してseeとかwatchとかそういう意味だけでなく、言うなれば「面倒をみる」とかそういう意味も含まれている。SNSの向こう側、インターネットの大海原ではこの「みる」という行為を遂行するのはとてもむつかしい。しかし、SNSが発達して間違いなく「みる」ということは、価値をより高めてきていると思う。

東京へ引っ越してきてなんとなく感じていることとして、この「みる」という行為を放棄している人が多い。彼らは得てして、その場集まれる人で集まり、その場でしかできないような話をして、その場で楽しいことをして、帰る。私はいつも、こういうことか、と考えている。もちろん、私という存在を怪しがって、こういう付き合い方をしている可能性も十分にあるのだが。私はほぼ裏表を(自分の中では)定義すらしていない人間だったが、人を怪しがることを理解するのには時間を要した。しかし、東京という街にはそれだけ「いろんなひとがいる」ということへの防御反応なのだろう。人を「みず」に、遊んで帰る。そういう感じだ。もちろん、そういうのは楽しい。

私はそこに、どうしようもないほど東京を感じる。

 

冒頭の子供もきっと、母親に「みて」欲しかったのだろう。それはスマートフォンではなく、頭を撫でるスキンシップでもなく、みてほしい。こどもは素直だとはいえ、この概念を理解し相手に伝える手段をきっと持っていない。私はこどもを、みないようにしていた。みてもよかった。みて、微笑んでやるくらいがちょうどよかったのかもしれない。しかし、東京でどんなことがあるかわからないと私の経験が囁きかけ、みないようにつとめていた。

 

電車に揺られ最寄駅に着く頃、いつの間にか親子は降りていたことに気づく。赤の他人であればまだしも、こうやって人をみることを忘れていってしまうのは寂しいことだな、と自戒した。