白い球体になりたい

音楽好きだし、ゲイだし、世界が終わらないことも知ってる

アーメン

何から言葉にすれば良いのか。社会や民衆は混乱しきりで、政治は頼りにならない。明日の仕事もよくわからない。日常を非日常に変貌させるのはいつも一瞬だ。いつもと違う駅でおりたり、男性同性愛者しか集まらない不可思議なサウナへ行ったり、新型のウイルスが蔓延しているかもしれない街を颯爽と歩けばいい。ニュースを見れば、外国で途方もない人数が感染し、医療崩壊して死んでいるというニュースが飛び込んでくる。感染が蔓延した一部の国では、宗教の大規模集会が原因だったというから皮肉な話だ。神に祈ってはいけない。奇跡は起こらないと思っていようと改めて感じた。

少し前に某宗教へ洗礼を受けた友人がいた。彼は精神的な調子をしばしば崩しており、それを自覚していた彼は手立てとして「精神の支え」を探した。その答えが宗教だったという。新興宗教ではないため、壺を買ったりとかなどはない。私は詳しくはないが、せいぜい教会に行って祈ったり、聖書を読んだりとかするくらいだと認識している。彼は宗教を「人生をやっていくためのモチベーションになる」と表現した。なるほど人生はささいな善行を積もうが評価して加点してなどそういうシステムがない。宗教があれば、神がそれを見てくれる。

人は弱い。だからこそ信じたい話を信じようとする。自分だけは感染しないだろう、などがそれだ。今日はずっと家にいた。感染してもいいが、たとえば重篤化して個室隔離され誰にも看取られることなく死ぬのはまっぴらだな、と思った。そうは言っても、このまま独身のゲイの暮らしを続け、いつかは…とも脳裏をよぎったが、もう少し生きてたいなぁと思うことが最近多く、適度に人生をやれている。私の人生のモチベーションであり、私は私自身が私の人生を評価していきたい。採点甘めでね。つまり、私の人生では私自身が…なんちゃってね。

民衆は政治を語る言葉を忘れ、血眼で使い切れやしないトイレットペーパーを買い占め、政治家の思いつきで行動を左右され、外を出れば人類未知のウイルスが蔓延しているのだという。しかし明日私は普通に出勤だ。気休めの換気に人生を委ねながら満員電車に揺られ一時間、ショートコント…と呟きながら現実逃避し、愚かな民衆として政治家に嘲笑されることとしよう。神にでも祈ってみようか。アーメン。

 

 

 

 

 

1984

最近ネットフリックスに魂を売り渡していろいろ見ている。面白かったのはグレートハックというドキュメンタリー。ドキュメンタリーが一番好き。ショウレースもいいけど、どんなフィクションよりも現実の方が確実に面白いと思っているタチなので。グレートハックというドキュメンタリーは、簡単にいうとSNSに無料であげられたユーザデータが政治のプロパガンダに使われていた実話スキャンダルを暴いた話。何気なくSNSを活用していた身としてこれは本当に衝撃的な話だった。何気なく呟いた言葉、結婚しているかしていないか、男性か、職業は、住んでいるところ‥ありとあらゆる情報が解析され、その人が政治的にどんな考え方を持っているのかが判別できること、さらにその考えも、巧みな広告やデマ情報などで感情を煽ることで改心することが可能だということ、それらはブリジグットやオバマトランプ大統領の当選活動に巧みに用いられていたいうこと、しかもこの元凶はたった一つのイギリスの会社で行われたということ。こうやって並べてみると、このブログの文章もきっと解析されてしまうのかもしれないし、私が普段考えている色々なこと、特にSNSで流れている情報が、何もかも空想のように思えてくる。

1984という曲が好き。andymoriだ。はじめ1984とは何だろう?生まれ年か?など今思えばなんと無理解だったことを思っていた。これは大昔に流行したディストピア小説の名前から取られたのだと今ならわかる。完璧な監視社会の話だ。私もウィキペディアだけを読んだだけなので、詳しくはまだ知らないが、読めなくなってしまう前に読んでおかなくてはいけないな、と思った。

そのヘイトも、本当に自分の身から出ているのか、自戒してみてほしいよ。

SNS

日常が果てしなく続くと、記憶もないままに月日が続いていく。非日常を時々挟みたくなるのは、日常の繰り返しは記憶として残りにくく、非日常ばかり思い出になって僕たちが死んでいくことをわかっているからなんだろう。ちょうどいい。私はずっと日常が欲しかった。思考しないで繰り返すだけで生きていける日常が。

日常がないと非日常を象ることができない。夜にならないと街灯は影を照らせないのと同じで、屈強な日常があって初めて非日常を非日常たらしめるのに違いない。上京してから、東京(神奈川)はずっと僕にとって非日常の街だった。ようやくだ。いつもの職場のバス、デスク、上司の顔、昼食、ルーティンが出来上がり、私はそれらすべてを毎日思い出しては忘れていく。

そうした中で、不意に悪意が差し込まれる。悪意は大概非日常になりえるが、本当に見たくないものだ。臭いものに蓋ということわざのある国で生まれ育った私としては、なるべく見たくないものだ。しかし、最近はいやでも目に入る。群集たちはマスメディアに煽られて、あるいはSNSで顔も知らない誰かにそそのかされて、勃起した陰茎で悪人の顔を殴る。ここまで書けばなんとなくわかるかもしれないが、私は疲れ果てていた。

悪人は悪人でしかないが、悪意に悪意で応えてはいけない。これは祈りに近い。何のための法治国家だというのか。誰しもを敵か味方かでしか見れなくなってしまった人たちにこう言ってもきっとわからないだろう。わからないだろう、と思ってしまうと私は黙り込んでしまう。私がわかりやすい言葉を使えないからよくないのだ。

よくないことをよくないと叫ぶのはいいのだ。ただ近頃のニュースには疲れてしまっただけだ。こうやって、人々は気力をなくし、意見を叫ぶこともやめ、自分の好いているものすらSNSの映えを気にするようになる。最後のは蛇足だ。

しかし強烈な記憶に残ってしまうものになるのだろう。私はただただ冥福と、法に基づいた制裁を。