白い球体になりたい

音楽好きだし、ゲイだし、世界が終わらないことも知ってる

20160617

感情のコントロールは何歳になっても難しい。抑え込むことはできるようになっても、生じてしまうものは止められることなどできない。そして、生じてしまっている感情がどういう類のものなのか、なぜ生じてしまったのか、すべてを正しく解釈することが、意外と困難なのだ。しかしそれは正しく自分を理解する作業でもある。この作業は怠ってはならないと思ったのだ。
今日は東京に来た。今朝方東京へ行くことを決めて、そのまま新幹線に乗ってはるばる来た。宮本さんの「曖昧」という展示をどうしても見たくて。なぜ僕がこれを見たかったのか、うまく僕は説明を並べることができないのだが、新幹線に1万円、夜行バスに6千円払ってでも見たかったのだ。それは確かな気持ちだった。
強いて言うなら、僕自身恋愛の意味だとか意義が、よくわからなくなってきたような不安があったからだと思う。付き合うってどういうことだよとか、完璧な答えなどありはしないのはわかっているはずなのだが、自分自身で答えを定義付けできてもいないらしい。
付き合うっていうことは、相手と日々を積み上げて行く作業で、そこから得られた結果は、日々変わって行くものなのかもしれない。口から出任せがでた。

そういう意味で、宮本さんの「曖昧」という展示は本当にナマモノだった。宮本さんの作品「正面」というレンズの向こうに、たった1日でも積み上げることができた関係性を垣間見ることができた。自分も、いつかこんな風な表情を向けられたことがあるんだろうか。いつか好きだった人たちは、私を…

新宿の高層ビルはキラキラとゆらめいている。

夜行バスは好きだ。具体的には、夜行バスの車窓から眺める東京が好きだ。ショーウインドウから眺める宝石のような街明かり。月並みな言葉でも、僕はこの夜景が好きだ。
夜景は僕に考える時間を与えてくれるから好きだ。眺めているだけで、眺める理由ができる。夜行バスに揺られながら僕はこの文章を認める。今日はいい日だったが、宮本さんの展示を見て僕はまた謎を深めてしまったような気がする。だけどこれでいいのだと思う。

ストリートミュージシャンが、悲しい恋の歌を歌っていた。

新宿の駅前で、ゲイを見かけた。髪を短く刈りそろえ、身体を鍛え抜き、小洒落た小さめのシャツに身を包み、ここが我々の街だと言わんばかりに颯爽と、僕の横を歩いて行った。僕は名古屋へと戻る。今夜僕は、どんな表情で東京の夜景を眺めるのだろう。

 

note

静かだ。
一人しかいない部屋で、遠くから鉄道が通る音が聞こえる。この部屋に住んで3年になる。
 
思えば、資本主義と向き合うことなく、27年生きてきた。
悪い癖で、本質的なことはあとまわしにしてしまう。
気づけばいつだってそうだった。
目先のことですぐに頭がいっぱいになり、中期的なことや長期的な戦略を立てることが苦手だった。
筋トレや、就職だってそう。
自分の人生に価値を見出せず、適当に生きてきた、そんな気がしている。
自分の人生に価値を見出せないので、自分の人生に誰かを巻き込むようなことを、してこなかった。
絶望に対して、甘えていたのだ。
 
この文章を書くことで、僕は構ってもらおうとしている。
それはTwitterで知り合ったたくさんの、いまのところ、いい人たち。
でもそれはきっと自意識過剰だ。
このブログが、せいぜい数人にしか読まれないであろうことも分かっている。
僕がどれだけいい曲を書いても、世界は変わらないことも分かっている。
やり方が音楽しかないので、こうなってしまったのだ。
いつだって音楽以外の方法を探してきた。
だけど、どうにも音楽以外向いてないみたいだ。
 
この部屋を引き払うことにしたのは、単純に生活するということがわからなくなったからだ。
生きていくだけでお金がかかるということを、見てみないふりをしていたようだ。
筋トレや就職だってそう。
僕は本当は欲深い人間なのだ。
そしてそれが正しい人間の姿なのだろう。
 
全てをいま捨てて、ゼロになってからまた始めようと思う。
気づけばいつだってそうだった。
中期的な、長期的な戦略を立てるためには、一度大きな間違いを犯さない限り学んでこなかった。
ここでの生活を一度糧に変換して、全てをやり直そうと思った。
その気持ちを忘れないように、ここに記しておこうと思ったのだった。

トウキョウ、ポエム、サテライト

今日だけで、少なくとも私の周辺にいる3人が、”トウキョウ”へ行くことが決定したことがわかった。
 
”トウキョウ”は、”トウキョウ”にふさわしい人がいないか自ら常に全国津々浦々アンテナを張り巡らせ、監視している。
”トウキョウ”で成功を夢みる若者、
”トウキョウ”で暮らす恋人に想いを馳せている人、
”トウキョウ”で働くべき優秀な人材など、様々だ。
 
彼らが”トウキョウ”で暮らすにふさわしい”何か”を手にした時、切符を渡される。
行き先は全て、”トウキョウ”だ。
切符を手にした彼らは、まるで初めからそうすることが決まっていたかのように、
テレビや、PCのスクリーンなど、画面の中にズブズブと入っていく。
その場所は、決して新幹線や、飛行機でいけるような場所ではない。
公共交通機関でいつでもいけるあの都会は、”東京”であって”トウキョウ”ではない。
”東京”と”トウキョウ”は一見コピー&ペーストしたかのように、私たちを欺くだろう。
しかし”東京”へたどり着いてしまった人間は、決して”トウキョウ”には入り込めない。
ガラスのような透明の素材越しに、”トウキョウ”の人々を眺めることしかできない。
 
”トウキョウ”は、
”トウキョウ”で生きて行く資格を与えられた人間だけが、入り込める世界なのだ。
 
私は”トウキョウ”に選ばれることなく、地方からぼうっと寒空を眺めている。
夜23時、餌を待つ雛鳥のように、だらしなく口を開けていた。
片付けていない部屋に、空腹を知らせる音が鳴り響いた。