白い球体になりたい

音楽好きだし、ゲイだし、世界が終わらないことも知ってる

セックス

ジムを終えたあと、近くのコンビニでサラダチキンを食べることが習慣になった。体を鍛えて、栄養をとって、効果があるかどうかはさておいて、このような習慣をつけないと精神的な安定が得られない。ジムで体を鍛えることは、ゲイコミュニティで生き延びるための唯一の手段、というか、それでギリギリ私はゲイだというアイデンティティを保てているのだと思う。

新宿二丁目系シンガーソングライター」と銘打った私は、ライブハウスでの活動を通じてかなりの人たちに私はゲイセクシャルなんだと打ち明けてきた。カミングアウトである。しかし、生活は別に変わらない。少し女友達が増えて、最近のネットのニュースで、同性愛を差別する発言に対して謝罪する、という風潮が出てきたくらい。でもそれはどこか遠い国のお話のように聞こえてしまう。

別に私が活動する前からそのように風潮は改善されつつあったし、私はその流れに少し乗って、仮想の世界でない、現実の世界で生きている実物を見てほしいなと思って歌っているだけだ。

私の勤めているごくごく狭い世界では、未だにオフィスレイディと呼ばれる人がいて、彼女たちにお茶を汲んでもらうようお願いしなければいけないし、なんならファクシミリだって、テレフォンボックスだって置いてある。グーグルで検索するだけでインターネットに詳しい人という扱いになる。そんな彼らは、未だに「彼女」の気配すら匂わせない私をさぞ不思議がっている。先ほどまで罵倒していたゲイセクシャルが目の前にいるとも知らずに。彼らはしきりに「結婚」をしろという。私はいつもそのシステマティックな幸せに疑問を覚えるが、たいてい会話をそらすのに必死だ。彼らは男二人の純白のタキシード姿を見たいのだろうか。まぁ、別に見たいとか見たくないの話ではなくて、単純に私の幸せを、彼らなりの価値観にのっとって願ってくれているのであろう。

いままでのことを思うと、私はいろいろな環境に自分に順応させてきたのかもしれない。それは自分の演じるキャラクターや立ち振る舞いで、その各々の環境に入って一番バランスが保てるよう、いろいろな役柄を演じてきたような気がしている。この会社でも、きっとそうだった。私はさわやかで、仕事に一生懸命で、明るい将来を描ける、上司に逆らわない、そんなまじめな好青年像を求められるがまま、無意識的に演じてきたのだろう。

自分のこの空虚さを取り戻すかのように、私は自分の信念のようなものを曲に反映してきたし、そういうのは得意で助かった。いつだって音楽にすがって、助かってきた。いつまで音楽ができるかはわからないし、とりとめのない文章をブログに乗せても仕方がないので、ここでこのお話はおしまい。

みんな、いいセックスをしようね。

 

 

 

 

 

 

 

生きる

定年退職を控えたAさんにしょっちゅう電話がかかってくるようになった。会社を退職する手続きがたくさんあるのだろう。企業年金だとか、財形貯蓄とかいろいろ。以前Aさんと飲み会で老後の話をした時、「今の時代、老後に向けて5000万くらい貯金しておかないと野垂れ死ぬよ」とアドバイスをいただいたことがある。みんなそんなに貯金できんの?とカルチャーショックを受けた。Aさんは実際にいくら貯めてるのかは知らない。

働くのが嫌で、社内の共通サーバのファイルを漁っていたとき、「これからこの事業部をどうしていこう?」みたいな会議の議事録を見つけた。我々事業部の現状把握、それに抗する対策、なかなかに現状に即した現実的な文章だなと感心していると、作成の日付が15年前であることを確認した。

つまり、これだけの問題点があると把握していながら、これだけ事業部が追い詰められていることを理解していながら、それでもなお、どうすることもできなかったのだ。しかも厄介なことに、15年という長い月日を、なんとか生きながらえてしまった。緩やかに、静かに、しかし確かに、死んできたのだ。僕はそのうちの5年ほど、この事業とともにゆるやかに死んできたのだった。

 

Aさんは定年退職が嬉しくて仕方がないようで、普段はそうでもないのに最近は周りのひとにやっかむようになった。この15年を一番濃厚に過ごしてきたBさんは僕の上司で、今日はBさんにAさんが珍しく話し込んでいた。

 

この事業はもう持たない。早く畳むべきだろう。しかし畳むとなれば責任を誰が取るのかという話になってくる。現状を誰も責任をとると思えない。この事業はしばらくつづくだろう。再起は絶対に不能だとしても。

 

畳むべきだというのは辞めるAさんで、冷静につづくと語るのはBさんだ。

僕はこの会話を遠巻きに聞きながら、Yahoo! JAPANで世界が滅びるニュースや、隣国の繁栄のニュースを読む。

定年退職を間近に控えた人に、もうこんな事業は畳むべきだと言われたBさんは一体どういう気持ちだろう。この事業をここまで放置し、ここまで悪化させた一因は必ずAさんにもあったはずなのに。他人事、当事者意識、さまざまな言葉で彼を責め立てることはできても、あまりに無力だ。なぜならば彼はもう定年退職というゴールテープを切る寸前なのだ。逃げ切り一着。翻って私は周回遅れのコースから外れ、競技場の外への脱出を試みるしかない。

Bさんはどうだ。僕は個人的にBさんに大変な尊敬の念を抱いている。我々部下の労務管理進捗管理、仕事の指示の出し方、質問への回答、全てが完璧すぎるほどの優秀な人だ。この人の下で働くことができてよかったとすら思う。しかし、もう外堀が埋まってしまった。それだけ優秀なBさんを持ってしても、この場所は緩やかに、確かに、静かに、死んできたことだけが事実なのだ。

僕は自分が生き延びる手段を考えなければいけない。走り方だってそうだし、走る場所だってそうだ。この崩れおちてしまいそうな競技場の外はどんな景色だろう。空は青いだろうか。道はアスファルトだろうか。ボロボロになったシューズで立ち尽くしている。

 

ハブ・ア・ハッピー・セックス

「そうは言っても、君たちのセックスには何の価値もないじゃないか」

文脈こそ忘れたが、いつかノンケに言われたことがある。

その時はそうかもしれないね、なんてお茶を濁したことは覚えている。

こう言えば良かった、と最近後悔をした。

「じゃあ、なんで君はコンドームをつけてセックスをするんだい?」

 

 

 

アプリを辞め、ジムを辞め、ゲイバー通いも控えていると、本当に自分はゲイなんだろうかという疑問が湧いてくる。

ライブハウスで私がゲイなんだと歌うことは、自分のアイデンティティの確認も兼ねている。

それほど普段隠し通しているのか?一体何を?

大したおかま喋りもできないくせに、私は何を隠して、何を護りたいと思っているのだろう。

それにしても、本当にゲイなの?と確認されるのも不思議だ。痴漢冤罪の証明ぐらい難しいのではないのか?目の前にいる適当な男とキスでもしろと?私がそんなに節操のない存在に思われているのか?

それほどゲイという存在は身近にはおらず、テレビの中の空想の世界での現象だと考えているのだろうか。

 

「私自身、昔は同性愛者としての自分を受け入れられずに苦しんでいた」と吐露したら、仲の良かったフォロワーにブロックされた。結構ショックだったけど、彼のツイートを見たら「汚物は消毒」とか「自分が触れたくない考えなんか見たくない」といったようなことが書いてあった。正しいTwitterの使い方だし、どうせ私と彼はいずれ分かり合えなくなる時が来ることを匂わせるtweetだ。

仕方ない。その時が来たのだ。

どんなに考え方が違う人でも、どんなに趣味嗜好が違う人であろうとも、私はそれで友人をやめようとは思わない。気が合えば話したいし、出会いは基本的にラッキーなものだから。その人がこれまで培って来た教養や経験が、彼に様々な嗜好や拒絶を与えているのだから、それは尊いものであると思うし、それを否定しては話ができないから。

だから私は彼を否定しないし、彼は私を否定しても構わない。

だから仕方ない。

ただ私が悲しいだけ。

 

 

明日も君はコンドームをつけてセックスするだろうし、

あったかい家庭がある人、

家庭が壊れた人、

孤独な人、

孤独すらない人、

いろいろあるけど、できるだけ幸せなセックスをしようね。