白い球体になりたい

音楽好きだし、ゲイだし、世界が終わらないことも知ってる

58

「そう来るんじゃないかと思ってました」

 

 直属の上司に退職の意思を告げると、全てお見通しだったことがわかった。尊敬している人に別れを告げることは本当に心苦しく、涙を流さないように泣いていた。精神的にまいってる様子だったのが見て取れたので、相当心配されていたようだ。

 上司は、今後の進路を応援してくれた。私が現職で考えていたことを話したらほぼ共感しているようだった。転職を考えたことも何度かあったそう。しかし彼は生活を取り、ここまでやってきた。側からみれば仕事のできない奴がいなくなって清々すると思う。上司のポーカーフェイスからは何も読み取れなかったけど、名古屋に帰ってきたらお酒でも飲みましょうと言ってくれた。

 

さらに上の上司がやってきて、今度は穏やかでない表情で私を説教する。「今から他所に通用するエンジニアになることは厳しい」と言われた。同じ口から以前「君は他の会社でやっていけると思う?」ときかれたことを思い出し、全てのピースが当てはまった。エンジニアの道を捨てた方が賢明だという彼の主張を聞きながら、これまで働いてきたいろんな出来事を思い出していた。行くも地獄、戻るも地獄。つまり、私は地獄で生きていることの証明になってしまった。

 

大人になると、涙を流さなくても泣けることができてとても便利だ。

 

28歳の夏休みが始まった。

どこへ行ってもいいし、いくら寝てもいい。

僕は途方に暮れていた。

 

 

 

短絡

「あんたが実家に戻ってきて、まだ一年も経たないのに、もう行っちゃうんだね」

 

母の最近のお気に入りは覆面パトカーの動画を観ることで、家に帰るとソファーの上で寝そべって、スマホにかじりついて動かない。普通の車から覆面パトカーへ変身を遂げる瞬間がたまらないそうだ。僕にはよくわからなかった。

そんな母に、内定が出たので上京する旨を伝えた。母は少し間を置いて、誰に対して発しているのかわからないような、不思議な口調で放った。

 

僕は何も言えなかった。僕はゲイで、ゲイにとって上京がどう重要なのか、母には一番説明してきたつもりだった。母がどう思っているかは、実は未だにわからない。ゲイだという話をしてから10年以上経つというのに、だ。母が息子へ抱く愛情だとか、家族の絆だとか、そういった類のものはあまり意識してこなかった。一つだけ分かっているのは、僕は何も言えないまま少し涙を堪えたということだ。

 

僕は最近すぐ泣いてしまう。面接前後もだし、業務中はずっと、寝る前、たまのスーパー銭湯、東京と名古屋の新幹線の間、面談最中で涙が出そうになってしまった瞬間もあった。もちろん涙が出ていても、嗚咽がとまらなくなるのは稀で、涙が出ていることを鼻の奥の方で感じ取りながら普通の表情で働いている。表情一つ変えずに泣くことってできるんだ、と自分の「大人」としての成長に戸惑いすら抱いた。いろいろな種類の涙があって、それら全て説明できるわけがなくて、感情の回路が短絡しては、導線が焼け切れてしまう。取り繕う気はさらさらなくて、涙が止まるまで泣けばいい。どれだけ時間がかかるかはわからないが、そうしないと解消できない感情をきっと生んでしまったのだ。

 

今までいろいろな場所へ動き回ってたくさんの人と話をして、危機意識と市場価値の現実が見えた。現実はいつでも恥ずかしがり屋だ。目の前にあるはずなのに、隠れて出てこない。現実の解釈の仕方を間違えると、一気に鬼の形相で襲いかかってくる。なかなかに可愛い奴じゃないか。

 

人生を壊さないように必死で、どうにかここまできた。今振り返ると、人のアドバイスに流されっぱなしの人生だった。自分自身で決定した結論だったつもりが、どうやらそれが疑わしい。アドバイスはありがたいが、それを裏切る何かはありえる。しかしながら、今回鮮明になったことは「誰のものでもない僕の人生だ」ということだ。

 

僕は初めて自立することができるのだと思う。

 

「大丈夫。また顔見せに帰ってくるし、ここは私の故郷だから。」

母にはそう伝えた。

転&職

通勤途中の道すがら、ツバメの巣から雛が落ちて死んでいるのを見つけた。春の終わりを告げるかのような強い日差しと、熱せられたアスファルトに静かに横たわり、眠ったように動かない。すぐ上には巣から雛たちがピーチクパーチクと薄情にも親の帰りを待っている。残酷だが、さもありなん。幾多の人々が慌ただしい様子でその場を立ち去っていた。私は出勤に遅れるギリギリであったため、その場を後にした。

 

ピーチク、パーチク。

 

転職活動をしている。

転職活動を始めると一つ強烈にわかることがある。それは「自分の市場価値」だ。自分がどんな環境で、どのようにして、どれくらい働いてきたか。それが全てとなる。私の市場価値はどうだったかというとそれはお察しで、アラサー、黒電話が使えます、という感じだ。ここは竜宮城で、今私は玉手箱を開けてしまった。見渡す限りに知らない世界が広がっており、自分がいまどんなものなのか、何もわからないまま時間が過ぎていた。

あるいはここは燕の巣なのかもしれない。私は幼気な雛鳥で、まだ翼も育っていないまま飛び立とうとしているのかもしれない。私の翼の状態を確認した。その気になれば飛べてしまえるんじゃないか。無知な私はそんなことを考え、いざ巣の外を観察する。なんと広く、美しく、残酷な世界が広がっているのだろう。私ごときに、一体何ができるのだろう。私は1人の凡才として、平平凡々な人生を歩んでいきたかっただけだというのに。私はこのまま、自己実現などを放棄し、人間でなく機械として生きていきたかっただけなのに。

私は巣から身を乗り出し、さして大きくもない空へ飛び立とうと一気に___

 

ピーチク、パーチク。

 

先ほどの雛鳥に名前などなく、廃屋に設置された巣は人知れず営んでいくだろう。

そして私はまたその場面を完璧に無視し、後にするだろう。