白い球体になりたい

音楽好きだし、ゲイだし、世界が終わらないことも知ってる

流体

「東京は、人が流れているよ。」

地元にいた頃よく通っていたゲイバーの店子は、以前東京に住んでいたのだと言う。しかし、東京に嫌気がさし、地元に戻って来たのだと。なぜ嫌気がさしてしまったの?と僕が尋ねると、彼は少し考えた様子で、そう答えてくれた。彼の表情は少し何かに諦めているような、あるいは淡々としたような表情だったのをなんとなく覚えている。

そして、僕がどんな風に返したかもよく覚えている。僕はさもわかったかのような顔をして「へぇ、そうなんだ」なんて口に出していた。その実、何も理解できてやしなかったのだが。

しかし最近、この言葉の意味が少しずつ理解できるようになって来た。それは最近あったいろんなこと。詳細はここでは書かないが、遠く流れていったように思う。

 

話は変わって、最近「水脈」という曲を書いた。水脈という言葉はとても不思議に思っている。地学っぽい言葉のくせして、あまり深い意味や暗喩を持ち得ない、不思議な立ち位置の言葉だと思う。

これは攻撃ではなく、回答である。回答であるため、正しいだとか間違っているだとかそういう議論をしたいわけではない。もっといえば、感想文に近い。だいたい、僕は差別はしていいと思っている。まぁ、ないに越したことはないけれど、完全になくすことは不可能だと自分自身実感する。もちろん、僕自身は気をつけているけれど。

差別は個人の価値観であるものであり、「差別をすることが常識である」という意識には異を唱えたい。僕が批判したいのは常識の方、そして、差別によって権利を奪うことである。

「自身がゲイであるのに、ゲイを隠して生きるということは、自分の中にある差別意識を克服できていない証明である」といろんな人が言っていた。僕はそれはその通りだと思う。しかし、それの何が悪いのだろうか。日々自分自身に矛盾を抱えながら、それでも生きていくという形に一体どういう問題があるのだろう。世の中にいる全ての人が、自分自身のレトリックに一切の矛盾もなく生きていくべきだとでも言うのだろうか?僕はそうは思わないし、そのような機械のような思考能力を持ち合わせない。僕は人間だから。僕自身、会社には異性愛者のふりで通している。それがなんだかんだ楽だからだ。今回特に描きたかったのは、この部分が一つ。ここまでにしよう。

あまり楽曲について答え合せするのはアーティスト失格な気もするが、あまりにも今回の楽曲に関しては思うところが多すぎて、自分の中で整理して落ち着けるためにも、少し文章に起こした。もし読んでいただけたのならありがとう。

しかし水脈をたどる水、我々は日々流体のようであるね。

 

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