白い球体になりたい

音楽好きだし、ゲイだし、世界が終わらないことも知ってる

みる

疲労でくたくただったが帰りの電車では運良く座ることができた。通過する駅すら認識できないほど遠い意識のなかで、ふと子供の声が聞こえる。目を開けると隣の座席に親子が座っていた。

「いちねんせいになったら」

子供は電車の中だというのに歌っている。新入生なのだろう。少し寂しそうに見えたのは、母親の気を引きたがっているのがわかったからだ。母親は少し疎ましそうに子供をなだめている。ここは電車のなかだから静かにしなさい。

私にもああいう時代がきっとあったのだろう。

 

最近、人を「みる」ということはとても大切なのだなと痛感することが多い。

「みる」というのは決してseeとかwatchとかそういう意味だけでなく、言うなれば「面倒をみる」とかそういう意味も含まれている。SNSの向こう側、インターネットの大海原ではこの「みる」という行為を遂行するのはとてもむつかしい。しかし、SNSが発達して間違いなく「みる」ということは、価値をより高めてきていると思う。

東京へ引っ越してきてなんとなく感じていることとして、この「みる」という行為を放棄している人が多い。彼らは得てして、その場集まれる人で集まり、その場でしかできないような話をして、その場で楽しいことをして、帰る。私はいつも、こういうことか、と考えている。もちろん、私という存在を怪しがって、こういう付き合い方をしている可能性も十分にあるのだが。私はほぼ裏表を(自分の中では)定義すらしていない人間だったが、人を怪しがることを理解するのには時間を要した。しかし、東京という街にはそれだけ「いろんなひとがいる」ということへの防御反応なのだろう。人を「みず」に、遊んで帰る。そういう感じだ。もちろん、そういうのは楽しい。

私はそこに、どうしようもないほど東京を感じる。

 

冒頭の子供もきっと、母親に「みて」欲しかったのだろう。それはスマートフォンではなく、頭を撫でるスキンシップでもなく、みてほしい。こどもは素直だとはいえ、この概念を理解し相手に伝える手段をきっと持っていない。私はこどもを、みないようにしていた。みてもよかった。みて、微笑んでやるくらいがちょうどよかったのかもしれない。しかし、東京でどんなことがあるかわからないと私の経験が囁きかけ、みないようにつとめていた。

 

電車に揺られ最寄駅に着く頃、いつの間にか親子は降りていたことに気づく。赤の他人であればまだしも、こうやって人をみることを忘れていってしまうのは寂しいことだな、と自戒した。