白い球体になりたい

音楽好きだし、ゲイだし、世界が終わらないことも知ってる

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日常が果てしなく続くと、記憶もないままに月日が続いていく。非日常を時々挟みたくなるのは、日常の繰り返しは記憶として残りにくく、非日常ばかり思い出になって僕たちが死んでいくことをわかっているからなんだろう。ちょうどいい。私はずっと日常が欲しかった。思考しないで繰り返すだけで生きていける日常が。

日常がないと非日常を象ることができない。夜にならないと街灯は影を照らせないのと同じで、屈強な日常があって初めて非日常を非日常たらしめるのに違いない。上京してから、東京(神奈川)はずっと僕にとって非日常の街だった。ようやくだ。いつもの職場のバス、デスク、上司の顔、昼食、ルーティンが出来上がり、私はそれらすべてを毎日思い出しては忘れていく。

そうした中で、不意に悪意が差し込まれる。悪意は大概非日常になりえるが、本当に見たくないものだ。臭いものに蓋ということわざのある国で生まれ育った私としては、なるべく見たくないものだ。しかし、最近はいやでも目に入る。群集たちはマスメディアに煽られて、あるいはSNSで顔も知らない誰かにそそのかされて、勃起した陰茎で悪人の顔を殴る。ここまで書けばなんとなくわかるかもしれないが、私は疲れ果てていた。

悪人は悪人でしかないが、悪意に悪意で応えてはいけない。これは祈りに近い。何のための法治国家だというのか。誰しもを敵か味方かでしか見れなくなってしまった人たちにこう言ってもきっとわからないだろう。わからないだろう、と思ってしまうと私は黙り込んでしまう。私がわかりやすい言葉を使えないからよくないのだ。

よくないことをよくないと叫ぶのはいいのだ。ただ近頃のニュースには疲れてしまっただけだ。こうやって、人々は気力をなくし、意見を叫ぶこともやめ、自分の好いているものすらSNSの映えを気にするようになる。最後のは蛇足だ。

しかし強烈な記憶に残ってしまうものになるのだろう。私はただただ冥福と、法に基づいた制裁を。