ハブ・ア・ハッピー・セックス
「そうは言っても、君たちのセックスには何の価値もないじゃないか」
文脈こそ忘れたが、いつかノンケに言われたことがある。
その時はそうかもしれないね、なんてお茶を濁したことは覚えている。
こう言えば良かった、と最近後悔をした。
「じゃあ、なんで君はコンドームをつけてセックスをするんだい?」
アプリを辞め、ジムを辞め、ゲイバー通いも控えていると、本当に自分はゲイなんだろうかという疑問が湧いてくる。
ライブハウスで私がゲイなんだと歌うことは、自分のアイデンティティの確認も兼ねている。
それほど普段隠し通しているのか?一体何を?
大したおかま喋りもできないくせに、私は何を隠して、何を護りたいと思っているのだろう。
それにしても、本当にゲイなの?と確認されるのも不思議だ。痴漢冤罪の証明ぐらい難しいのではないのか?目の前にいる適当な男とキスでもしろと?私がそんなに節操のない存在に思われているのか?
それほどゲイという存在は身近にはおらず、テレビの中の空想の世界での現象だと考えているのだろうか。
「私自身、昔は同性愛者としての自分を受け入れられずに苦しんでいた」と吐露したら、仲の良かったフォロワーにブロックされた。結構ショックだったけど、彼のツイートを見たら「汚物は消毒」とか「自分が触れたくない考えなんか見たくない」といったようなことが書いてあった。正しいTwitterの使い方だし、どうせ私と彼はいずれ分かり合えなくなる時が来ることを匂わせるtweetだ。
仕方ない。その時が来たのだ。
どんなに考え方が違う人でも、どんなに趣味嗜好が違う人であろうとも、私はそれで友人をやめようとは思わない。気が合えば話したいし、出会いは基本的にラッキーなものだから。その人がこれまで培って来た教養や経験が、彼に様々な嗜好や拒絶を与えているのだから、それは尊いものであると思うし、それを否定しては話ができないから。
だから私は彼を否定しないし、彼は私を否定しても構わない。
だから仕方ない。
ただ私が悲しいだけ。
明日も君はコンドームをつけてセックスするだろうし、
あったかい家庭がある人、
家庭が壊れた人、
孤独な人、
孤独すらない人、
いろいろあるけど、できるだけ幸せなセックスをしようね。