白い球体になりたい

音楽好きだし、ゲイだし、世界が終わらないことも知ってる

東京へ行くの巻

私が膝から崩れ落ちて泣いているのを、背後から眺めていた。

突然、私の周りを囲う東京の風景が動き出し、だんだん私は小さくなっていく。最初はビルや街が小さくなり、次は青い海や大陸が小さくなり、地球すらどんどん小さくなっていく。しまいには、真っ暗な宇宙の中を彩るように浮かんだ星も、ただの一本線になっていった。一本線は際限なく増えていく。待って、待ってと私が声を上げているのを嘲笑うかのように、そのスピードは加速していった。

私はどんどん悲しくなって、私の嗚咽も不快を感じるほど大きくなり、背景が完全に真っ白になった瞬間、泊まっていたカプセルホテルで目が覚めた。午前3時だった。

 

「東京は、人が流れている」
珍しく東京に住んでいたのに名古屋へ引っ越してきたバーの知り合いが、東京についてそう話してくれた。いつものように緑茶ハイに薄っぺらい言葉を溶かしながら、ぼうっとした頭でそう聞いたのをなんとなく覚えている。バーでの会話などいつもは一晩寝てしまったら全て忘れてしまうわけで、どうしてそんなことを尋ねたのかも覚えていない。しかしなぜか、彼は表情にどこか暗い影を浮かべながらそう話してくれたことを覚えている。

 

 「東京で生き延びるコツは何ですか?」

東京で生まれ、東京でゲイとして暮らす友人に今日は久々に会い、昼下がりのバーで思わずそう尋ねてしまった。東京で生き延びるなどとなんともマヌケな視点の抽象的な質問で、口から出た瞬間自分でも後悔を覚えるほど驚愕したが、友人はなんなりと、いつもどおりの丁寧な口調で話す。一呼吸おいた後、簡潔に全てを表現し、そして、東京に怯えている私に、魔法をかけるような言葉を言い放った。

 

「楽しむこと、じゃない?」

 

宇宙空間に投げ出され、宛てもなく流れていくちっぽけな私の涙が、ようやく止まった気がした。

 

 

20160617

感情のコントロールは何歳になっても難しい。抑え込むことはできるようになっても、生じてしまうものは止められることなどできない。そして、生じてしまっている感情がどういう類のものなのか、なぜ生じてしまったのか、すべてを正しく解釈することが、意外と困難なのだ。しかしそれは正しく自分を理解する作業でもある。この作業は怠ってはならないと思ったのだ。
今日は東京に来た。今朝方東京へ行くことを決めて、そのまま新幹線に乗ってはるばる来た。宮本さんの「曖昧」という展示をどうしても見たくて。なぜ僕がこれを見たかったのか、うまく僕は説明を並べることができないのだが、新幹線に1万円、夜行バスに6千円払ってでも見たかったのだ。それは確かな気持ちだった。
強いて言うなら、僕自身恋愛の意味だとか意義が、よくわからなくなってきたような不安があったからだと思う。付き合うってどういうことだよとか、完璧な答えなどありはしないのはわかっているはずなのだが、自分自身で答えを定義付けできてもいないらしい。
付き合うっていうことは、相手と日々を積み上げて行く作業で、そこから得られた結果は、日々変わって行くものなのかもしれない。口から出任せがでた。

そういう意味で、宮本さんの「曖昧」という展示は本当にナマモノだった。宮本さんの作品「正面」というレンズの向こうに、たった1日でも積み上げることができた関係性を垣間見ることができた。自分も、いつかこんな風な表情を向けられたことがあるんだろうか。いつか好きだった人たちは、私を…

新宿の高層ビルはキラキラとゆらめいている。

夜行バスは好きだ。具体的には、夜行バスの車窓から眺める東京が好きだ。ショーウインドウから眺める宝石のような街明かり。月並みな言葉でも、僕はこの夜景が好きだ。
夜景は僕に考える時間を与えてくれるから好きだ。眺めているだけで、眺める理由ができる。夜行バスに揺られながら僕はこの文章を認める。今日はいい日だったが、宮本さんの展示を見て僕はまた謎を深めてしまったような気がする。だけどこれでいいのだと思う。

ストリートミュージシャンが、悲しい恋の歌を歌っていた。

新宿の駅前で、ゲイを見かけた。髪を短く刈りそろえ、身体を鍛え抜き、小洒落た小さめのシャツに身を包み、ここが我々の街だと言わんばかりに颯爽と、僕の横を歩いて行った。僕は名古屋へと戻る。今夜僕は、どんな表情で東京の夜景を眺めるのだろう。

 

note

静かだ。
一人しかいない部屋で、遠くから鉄道が通る音が聞こえる。この部屋に住んで3年になる。
 
思えば、資本主義と向き合うことなく、27年生きてきた。
悪い癖で、本質的なことはあとまわしにしてしまう。
気づけばいつだってそうだった。
目先のことですぐに頭がいっぱいになり、中期的なことや長期的な戦略を立てることが苦手だった。
筋トレや、就職だってそう。
自分の人生に価値を見出せず、適当に生きてきた、そんな気がしている。
自分の人生に価値を見出せないので、自分の人生に誰かを巻き込むようなことを、してこなかった。
絶望に対して、甘えていたのだ。
 
この文章を書くことで、僕は構ってもらおうとしている。
それはTwitterで知り合ったたくさんの、いまのところ、いい人たち。
でもそれはきっと自意識過剰だ。
このブログが、せいぜい数人にしか読まれないであろうことも分かっている。
僕がどれだけいい曲を書いても、世界は変わらないことも分かっている。
やり方が音楽しかないので、こうなってしまったのだ。
いつだって音楽以外の方法を探してきた。
だけど、どうにも音楽以外向いてないみたいだ。
 
この部屋を引き払うことにしたのは、単純に生活するということがわからなくなったからだ。
生きていくだけでお金がかかるということを、見てみないふりをしていたようだ。
筋トレや就職だってそう。
僕は本当は欲深い人間なのだ。
そしてそれが正しい人間の姿なのだろう。
 
全てをいま捨てて、ゼロになってからまた始めようと思う。
気づけばいつだってそうだった。
中期的な、長期的な戦略を立てるためには、一度大きな間違いを犯さない限り学んでこなかった。
ここでの生活を一度糧に変換して、全てをやり直そうと思った。
その気持ちを忘れないように、ここに記しておこうと思ったのだった。